産地広島について
日本三大牛市
- 現在の広島県三原市久井町は、「杭の庄」と呼ばれていました。杭の庄牛市は伯耆国(鳥取県)大仙市、豊後国(大分県)浜の市とともに、日本の三大牛市の1つとして栄え、牛市には山陰、山陽はもとより、四国、九州、大阪方面から牛馬や人々が集まっていました。
- 起源は天暦5年(951)室山で牛1頭を売り、その受け渡しを久井稲荷神社で行われたことによると伝えられています。1650年には、広島藩が杭の庄を藩公認の牛馬市に指定しました。
毛利元就公
- 1566年に安芸の小豪族であった毛利元就公は尼子氏を降伏させ、中国地方の鉄生産地帯の覇権を支配しました。戦略的に重要視された「たたら製鉄」には大量の木材を必要とし、莫大な森林伐採が実施(爪跡:毛無山現存)され、険しい中国山地で木材を運ぶためには馬よりも足腰の強い牛が積極的に利用されました。
- 伐採後の跡地は放牧による畜産が盛んに行われ、現代和牛のルーツ(広島血統和牛)造成に繋がりました。
岩倉六右衛門
- 広島県比和村で生まれた岩倉六衛門が天保14年に牛の品種改良を志し、地元の優良な雌牛をもとに血統の優れた岩倉牛(最古の蔓と認定)をつくり育成しました。
- 明治33年には、蔓作出者中随一と讃えられ農商務大臣より追賞されています。
第10野田屋号
- 天保年間に比婆郡で「岩倉蔓」が、明治年間には帝釈村で「有実蔓」が名声を博していました。これら両蔓牛の遺伝子は「第10野田屋」に集積されており、その遺伝子を用いて、新たに「あづま蔓」が誕生しました。
- 第10野田屋は比婆牛の祖であり、雄側より第21深川系、雌側より第38岩田系を確立しました。
皇太子殿下台覧
- 大正15年5月皇太子殿下(昭和天皇)が広島県に行啓され福山城跡にて本県和牛が台覧の栄に浴しました。
- 同時に尾道市尾道常設家畜市場と広島市広島畜産株式会社にそれぞれ侍従御差遣の栄誉を賜りました。
轜車奉引牛
- 大正15年12月2日、大正天皇が崩御され、昭和2年2月7日に御大葬の儀が挙行されました。慣例では轜車奉引牛に京都丹波牛が用いられていましたが、性質温順、強力持久、外観の美が認められ、本県和牛が下命の栄誉を担いました。
- 大役を務めた轜車奉引牛は、県知事の願いにより無償で下賜され、広島血統に貴重な遺伝資源として受け継がれています。
第21深川号
- 昭和18年3月2日に比和町で誕生した「第21深川」は、あづま蔓(岩倉牛)直系の種雄牛です。
- 本牛は、昭和28年に第1回全国和牛共進会(現在の全国和牛能力共進会の前身にあたる大会)に出品され「名誉総裁賞」を受賞し、深川系として比婆牛の代表血統となっています。
第3神竜の4号
- 岩倉蔓と轜車奉引牛の血統を受け継ぐ「第3神竜の4」は神石郡神石町で誕生し、第4回全国和牛能力共進会において若雄3区で優等賞首席を獲得しました。
- 10年後の第6回全国和牛能力共進会では肉牛の部で産子が金賞主席となり、種牛・肉牛両方で日本一に輝いた、広島県の伝説的名牛です。
畜産業界最高栄誉
- 第4回全国和牛能力共進会では育種登録群に「乙社6」産子が出品され、内閣総理大臣賞・名誉賞を受賞しました。
- 第5回全国和牛能力共進会では育種登録群「乙社6」直系の「栗富の10」産子が出品され、2大会連続の全国制覇という快挙を成し遂げました。
- 翌年には、農林水産祭で畜産業界最高の栄誉である天皇杯を受賞しています。